Vol.77 1967, New York


 JOJOさんから「NYLYでは今のNYだけでなく昔のNYについても情報を収集していきたいので」とレポートを頼まれてしまいました。昔と言えば私よりも前にNYを訪ねたことのある方は、NYLYを愛する方の中には少ないのではないか…と、思い切って書くことにしました。年ともに記憶も薄れてきていますが…。

1967,New York
 私が初めてNYのJFK空港に着いたのは1967年の4月でした。40年も前のことです。まだ10代で、父がニューヨークに赴任したのに伴い、家族で渡米しました。
 この頃は1ドルが360円の時代でしたが、実際生活してみると1ドル100円の感覚でしたので、日本から1000ドル=36万円のお給料を貰っても、10万円で生活していかなくてはならない・・・という感じです。その逆で日本で生活するアメリカ人は皆、今と比べると本当に優雅に暮らしていた印象があります。アメリカ人は皆お金持ちだと思っていました。実際には非常に貧富の差が激しい国ですが・・・。
 NYに着いてまず驚いたのは、映画等で見たことのある立体交差の高速道路とビル形式の駐車場。今では日本人も車中心の生活になっているので驚くこともないと思いますが、ビュンビュンと飛ばす尾羽がついているような大型のアメリカ車。PARKINGと縦に書かれて夜の町に光っているネオンの看板。そして、アイスクリーム。日本でアイスクリームといえばヴァニラ、ストロベリー、チョコレート位しかない時代です。10何種類のアイスクリームの中から選ぶ楽しさ。ああ、アメリカに来たんだと心から思いました。
 私のHNからもお分かりになるかと思いますが、住んでいたのはNJ州でした。アパートの地下駐車場からポートオーソリティまで直通バスで30分、地下鉄でペンステーションまで50分位でした。
 当時の地下鉄は「ドアが開くと死体が転がっている」という噂が立つほど、恐ろしいものでした。それでも昼間は地下鉄に乗り、マンハッタンまで出掛けたものです。怖い目にあったことは一度もありませんでしたが、学校でも夜には地下鉄に乗らないようにと注意されていました。
 当時のマンハッタンは、観光客が今に比べると非常に少なかったように思います。人通りもあまり多くは無く、私などは「銀座の方が賑やかだわ」と思っていたほどです。
 父の職場が5th Ave.にあった関係でマンハッタンまで「チョットご近所まで」という感覚で出掛けていましたが、同級生たちは遠足でセントラルパーク、新聞社タイムズの見学、自然史博物館などに行くときには、マンハッタンに行くという事でかなり興奮していたものでした。マンハッタンは隣の州に住むアメリカ人にとっても特別な街のようでした。
 絶対に近づいてはならないと言われていた場所はワシントンスクエアです。「あそこは麻薬の密売人たちが集まる所」だからです。2002年に初めて恐々行って見ましたが、穏やかで静かな公園でした。気が抜けるほどでした。
 学校は近所の公立の学校に通っていました。私達日本人2人(私と妹)のほかに、イタリア、中国、香港、ブラジルetc.からの生徒がいましたが、一番多かったのはプエルトリコから来た子供たちでした。私達は3年後には日本に戻る予定でしたが、ほかの子供たちはアメリカに移住してきた子供たちでした。外国人向けの英語の特別クラスにも入っていましたが、彼らは英語もうまく話せず自国の友達で固まっているという印象が強くありました。この子達が成長して、ミュージカル“West Side Story”の中のシャーク団の人達になるのだろうと、思っていました。

 色々日々の生活を少しずつ思い出しながら書いてきましたが、この時代、アメリカで忘れてならないことは「ベトナム戦争」と「人種差別・黒人暴動」です。
 まだ10代の子供にとっては、あまりにも大きな問題でしたが、印象に残っていることを書きます。
 通っていた学校に授業中、卒業生が先生を訪ねてきました。「ベトナムに行くので」と挨拶に来たのです。テレビでは毎日「ベトナム戦争」のニュースが流れていましたが、こんな近くにも戦争が影を落としていたのです。
 私たちの住んでいたNewarkの町は大変黒人の多い町でした。当時は今と比べてまだまだ人種差別が激しく、プールには黒人と一緒に入らない、黒人の男の子が白人の女の子と(逆もありました)歩いていて、もの凄く非難されるところを目撃しました。
 黒人暴動も激しく、学校が何日も休校になることもありました。勿論、外出禁止令が出されました。私たちが住んでいたのは12階の部屋でしたが、撃ち合いの銃弾が飛び交う光跡が見えました。外出禁止令が解けて、戦車に乗った金髪で白人の若い州兵達が、手を振りながら帰って行きました。
 キング牧師が暗殺されたのは私達が父の病気のため急遽帰国することになった直前でした。公民権運動に命を掛けた非暴力主義の牧師がワシントン大行進の時に行った、有名な“I have a dream”「いつの日か皮膚の色ではなく、人格の深さによって評価される国に住むという夢を持っている」の演説。亡くなる前日に行った“I’m not worried about anything”「私も長生きがしたい。だが今の私にはどうでも良いことだ。私は皆さんと一緒に約束の地には行けないかもしれない。今夜、私は幸せです。何も心配していないし、誰をも恐れてはいない」という、まるで自分の運命を予感しているかのような最後の演説。アメリカと言う国を動かした偉大な人物が暗殺されたのです。
 日本に帰る前日に、知人が車でハーレムに連れて行ってくれました。牧師の暗殺の直後でしたので、行かない方が良いと思いましたが、大丈夫と言われて初めて出掛けました。人通りの少ない通りの真ん中にドラム缶があり、そこから炎が高く立ち上がっており、とても恐ろしかったのですが、何故か人々は騒ぐことも無く町も静かでした。後世まで語り継がれる歴史の真ん中にいるのだと思いました。
 その後、ボビー、ボビーと呼ばれ人気のあったロバート・ケネディも暗殺されました。二人が暗殺されなければ…。評論家によると、その後アメリカは強硬な保守化路線を歩み続けることになったのだそうです。
 そして1年間のアメリカ滞在を終えて私達は日本に帰ってきました。帰りの飛行機が旋回しながらセントラルパークの上を通った時、何故か涙が出てきて、もう二度とアメリカには来ないだろうと思ったものです。
 しかしその後、30数年ぶりに2002年にNYを訪れ以来、NYの新しい魅力に取り付かれているのです。

2005/07/21





Another New York Vol.77
「1967, New York」
Text by NJ07104
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